『注法華経』の「大日経疏云。釈迦久遠寿量。皆在衆生一念心中」の文をめぐって

【注法華経の文】

 タイトルに挙げた『注法華経』に引文された大日経疏の文は、『注法華経』の結経の裏に記載されている。委細には、

大日経疏云。釈迦久遠寿量。皆在衆生一念心中。弥勒菩薩迹居補処。於此事中亦所不達。又彼宗中。観自心徳以為見仏・菩薩之徳(山中喜八編『定本注法華経』結経裏84番)

との文章である。『注法華経』には「大日経疏云」とあるが、現行の『毘盧遮那成仏神変加持経疏(以下『大日経疏』)』(『大正新修大蔵経』(以下『大正蔵』)第39巻所収)を当たってみても当該の文章は見つからない。また異本とされる『毘盧遮那成仏神変加持経義釈(以下『大日経義釈』)(『卍続蔵経』第36巻・『續天台宗全書』密教1所収)にも見当たらない。
しかしながら中世の天台の文献をみると、安然の「教時義に云く」として上記の文が引用されているものが見受けられる。このことについて実導仁空(1309~88)は大日経義釈を講じた『義釈搜決抄』に、

と記していて、上記の大日経疏の文は安然が『真言教時義』(以下『教時義』)にて取意して用いたものではないかと解説している。

【大日経疏の文】

この『義釈搜決抄』の解説の中、『大日経疏』の本来の当該文章を検索してみると、「入曼荼羅具縁真言品第二」を解釈するところにある。それは、

との文である。これは大日経の「信諸仏菩薩」の句を解釈するところに出てくる一文で(『大日経義釈』も同文である)、訓み下してみると、

復次に衆生の一念の心中に如来寿量長遠の身・寂光海会有り。乃至不退の諸菩薩も亦復知ること能わず。正に知るべし此の法倍(ますます)復た信じ難し(訓下文は『續天台宗全書』密教1の『大日経義釈』)

となるであろうか。『義釈搜決抄』の解釈によれば、大日経に説かれる深行の阿闍梨位の十三の徳の中の一つとして、「衆生の一念心の中に如来寿量の長遠の身および寂光の海会が有ることを知る、それは不退の菩薩さえ知り得ないこと」であることを挙げている。

【教時義の文】

一方、『大日経疏』を取意したとされる安然の『教時義』の該当の箇所を見ると、

となっていて、御書システムの『注法華経』の「訓下本文」に、

故に大日疏に云く、釈迦(尊)の久遠寿量は皆衆生の一念の心中に在り。弥勒菩薩は迹は補処に居す。此の事の中において亦達せざる所なり。又彼の宗の中に自心の徳を観じて以て仏・菩薩の徳を見るとなす

と上記の文を訓み下している。
これによって『注法華経』の引用は直に大日経疏の文の引用ではなく、むしろ『教時義』に取意引用された大日経疏の文であることがわかる。『教時義』では『大日経疏』の「如来寿量長遠」が「釈尊久遠寿量」に、「不退菩薩」が「弥勒菩薩」になっていて、具体的に法華経寿量品の経の相貌に寄せられているかと思われる。
さて、上記『教時義』の該当箇所をもう少し前後を詳しく引用すると、

となっていて、訓み下しにすると、

天台の本迹釈と今宗の因分と久近の意は同じなり。故に大日疏に云く、此の経の本地の身とは即是妙法蓮華最深秘密の処なり。観心釈と今宗の果分と一体の意は同じなり。大日疏云く、釈尊の久遠寿量は皆衆生一念心の中に在り。弥勒菩薩は迹は補処に居す。此の事の中において亦達せざる所なり。又彼の宗の中に自心の徳を観じて以て仏・菩薩の徳を見るとなす(筆者訓読)

となるであろう。つまり、天台の本迹釈と密宗の因分と久近の意で同じであり、また天台の観心釈と密宗の果分と一体の意で同じであるとしている。つまり『大日経疏』のそれぞれの文章を明証として顕教(法華経)に説くところと密教(大日経)の説は一致していることを言っている。

【天台文献の引用例】

この安然の『教時義』の理解に随って、宝地房証真の『法華玄義私記』(『大日本仏教全書』第21巻285頁)には、『大日経疏』の文章として「釈尊久遠寿量皆在衆生一念心中」を引き、法華の本門に説かれる久遠は大日の法身常住を明かしているものだとして、「故ニ知ヌ自覚ノ大日ハ是レ釈迦ノ遠寿也」と結論している。また『一流相伝法門見聞(二帖抄)』の「真言天台同異事」の項には、天台と真言は宗旨の辺において全く同じであることの文証としている。他にも、「大日経疏云」もしくは「教時義云」として、『一乗論談抄』・『雑々抄』・『法命集』・『玄義伊賀抄』・『宗大事口伝抄(等海口伝)』・『三百条』等、顕密一致の文証として多々引用されている。

【小結】

ところで上記『教時義』の文で、「天台の本迹釈と今宗の因分と久近の意は同じ」として引用している『大日経疏』の文の「此経本地之身」以下の箇所をさらに詳しく見てみると、

今此本地之身。又是妙法蓮花寂深秘処。故寿量品云。常在霊鷲山。及余諸住処。乃至我浄土不毀。而衆見焼盡。即此宗瑜伽之意耳(『大正蔵』39巻658頁上段)

と解釈していて、大日経の「本地之身」を説明するのに、大日経の経文を出して解釈するのではなく、法華経寿量品の「常在霊鷲山及余諸住処・・・」の経文を借りて解釈し、これが密宗の瑜伽の意であるとしている。
さらに「観心釈と今宗の果分と一体の意が同じ」として引用しているもう一つの『大日経疏』の文ついても、止観第五の「夫れ一心に十法界を具す○芥爾も心あらば即ち三千を具す」との一念三千法門のような詳しい解釈が特にあるわけでもなく、いきなり「復次衆生一念心中有如来寿量長遠之身寂光海会」との文章が挿入されている。このことから、「一行阿闍梨をたぼらかして、本はなき大日経に天台の己証の一念三千の法門を盗み入れて」と大聖人からの批判になっているのだろう。(成田)

山中喜八編『定本注法華経』結経裏84番
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※本文中、返り点などが付されている漢文に関しては表記の都合上、画像ファイルにてアップしております。

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