日蓮聖人遺文が、日蓮聖人の自筆(真蹟)・写本・刊本の三つの形態をもって、今日に伝来したことは周知のとおりである(高木豊「遺文の写本について」〔『中世日蓮教団史攷』)。その一つ、写本には、さまざまなかたちがある。集成を目的に書写されたもの。たとえば日興上人が檀越別に編んだ最古の日蓮遺文集「御筆集」(南条・高橋宛)や、録内・録外御書など。また日蓮自筆の模写本である日興写本『一代五時鶏図』・功徳院日通書写本など。申状に添付するために個別に書写された『立正安国論』・『守護国家論』など。日興『開目抄要文』、『当家三大部要文』(保田妙本寺蔵)をはじめ、日蓮聖人の著作に引用された要文を抜書したものなど多様である。
また日蓮聖人に直参した弟子の写本は、文献学的な価値も高く、しばしば真偽を判断する基準としても用いられている。日蓮聖人の有力檀越である富木常忍の息で、日興上人の門弟となった寂仙房日澄上人の写本も、その一つである。たとえば日澄上人が書写した「四条頼基陳状」案文の写によって、日蓮聖人が草した頼基の陳状に未再治本のあったことがわかり、日澄写本『立正安国論』にほどこされた訓点は、おそらくは現存最古の加点で、私も若干とりあげたことがあったけれども(『興風』31号339P以下)、今後の詳細な研究がまたれる。ちなみに日澄上人が日蓮聖人直参の弟子であることは、日興上人の申請によって日蓮聖人から御本尊を授与されていること(遠沾日亨『御本尊鑑』第六)から確実である。
ところで日澄上人の自筆は確認されていないが、日澄上人は父である富木常忍らへ宛てられた十一通の日蓮聖人遺文を書写していたことがわかっている。すなわち北山本門寺に現存する信伝上人(一三五九~?)の写本がそれで、本奥書に、
已上十一通者因幡国富城庄之本主日常所賜也、於正本者当住下総国葛鹿郡八幡庄内栗原村也、定有彼在所歟、此本者以御正本写校畢、日澄謹書
とあり、信伝上人は、
私云、于時明徳第三暦(1392年)林鐘(6月)十九日、於重須大坊寂仙坊遺跡自治部アサリ日伝相伝之、其後送十七年星霜佐州御代官下国之際、清書之奉処也、釈信伝之〈満五十才/エチコ〉 ※( )内筆者、〈 〉は割書
と奥書している。
写主の信伝上人について、少しばかり触れておくと、すでに大黒喜道氏が『日興門流上代事典』(興風談所,2000年)に取り上げているが、『類聚翰集私』に、
法蓮抄云、今法蓮上人送諷誦云、相当慈父聖霊第十三年忌辰、奉転読一乗妙法蓮華経五部云云、
私云、奉読誦、此品重須大坊御本以御自筆写交畢、下山三位阿闍梨日順本以、明徳二年九月二十二日、以日順御自筆澄師遺跡日伝奉被許、於重須写交了、越後房日東
とあり、大黒氏は、ここにみえる「越後房日東」と信伝上人は同一人物である可能性を指摘している。蓋然性は高い。また右の奥書によって法系譜は「日澄―日伝―信伝(日東)」であることもわかる。ちなみに信伝上人は、『日順雑集』にも、
明徳四年〈癸酉〉九月奉書写之、御本云、寂仙房自日伝相伝之、於佐州応永十二天正月清書之、信伝法師
とみえる(下掲図版参照)。

『日順雑集』(写本)奥書
※図版は転載禁止です
ところで、信伝写本の本奥書(日澄奥書)は、これまで次のように訓読されてきた。
已上十一通は因幡の国、富城庄の本主日常が賜うところなり、正本においては当住下総の国葛鹿郡八幡庄内栗原村なり、定て彼の在所にあるか、この本は御正本をもって写校し畢んぬ、日澄謹書、
しかし、この読みでは「御正本をもって写校し畢んぬ」と結びながら、前文では正本について「彼の在所にあるか」と、不確かな書きぶりとなるため、私もながく、その解釈については考えあぐねていた。そんな中、先年、本間俊文「初期日興門流における日蓮遺文の書写について」(『大崎学報』171号,2015年)は、寺尾英智氏の指摘として「御正本の写を以って校し畢んぬ」と訓読する案を挙げている。私もこの訓読であれば、先行研究の訓読による前後の齟齬も解消されると思う。
また前掲『類聚翰集私』の奥書に「重須大坊御本以御自筆写交畢」と、同様の一筆が見えること、そして同奥書をしたためた越後房日東上人が、信伝上人と同一人と思われることも注意しておきたい。もっとも末尾の「於重須写交了」は「写交」と読むべきであろうが、少なくとも信伝写本の本奥書(日澄奥書)については、「写を以って校し畢んぬ」の訓読に賛同するものである。博識のご高見を切にお願い申し上げる。
なお信伝写本の本奥書(日澄奥書)については、まったく別の視点から、近時、湯浅治久氏が富木常忍の居所を示す記事としてとりあげ、千葉氏の真間居館との関連を交えて論じている(『市川市史 歴史編Ⅱ ムラとマチ』市川市,2025年)。ぜひとも参照されたい。(坂井)


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