『断簡一九四・同九九並に其の関連断簡』について

 立正安国会から出版されている『日蓮大聖人御真蹟対照録』(以下『対照録』と略称)に収録される『断簡一九四・同九九並に其の関連断簡』(下巻三八八頁)は、『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下『定遺』と略称)の「断簡三一五」「断簡一九四」「断簡三三二」「断簡九九」「断簡三一六」を、その筆蹟や内容の類似性から同遺文の断簡とみて一括掲載したもので、その系年を文永六年としている。
 まずその画像を示しておこう。

※下記掲載図版は全て転載禁止です

※以上『日蓮聖人真蹟集成』(以下『真蹟集成』と略称。五巻二一五頁)

 これらの断簡類を同遺文の断簡とした『対照録』の判断は、通常より小さな字で記される等の筆蹟や形態の特徴、そして以下に述べる内容的共通点からして妥当である。また系年を文永六年としたことも、②『断簡一九四』二行目「の上とをほしめすべし」の「す」が、「寿」の変体仮名が使用されており、通常は「寸」の変体仮名が使用されるのと相違し、この特徴は文永三年一月六日『法華経題目抄』、文永三年『念仏破関連御書』、文永六年頃『十章抄』等、文永三年から六年頃に限って使用されるものであること、またこれらがすべてが通常より小さな字で記される特徴があることなどが共通しており、妥当である。

では以下に、同断簡群の内容について見て行くことにしよう。

一、正元二年正月四日の園城寺戒壇勅許について

 まず正元二年正月四日に園城寺戒壇が勅許されたことに関するものとして、①②③④の断簡群について述べたい。各断簡の内容は以下の通り。

①『定遺』『断簡三一五』
「□人とをほしめしゝかとも、山門のをそれによりて、こ」

②『定遺』『断簡一九四』
「れは法師にても俗にても山門の上を申ものをは、我父母の上とをほしめすべし。これは国をやふり我が後世」

③『定遺』『断簡三三二』
「然則三井戒壇所望、永断畢。大事猶□□□□小事哉等云云。此ハ長治二年に興均法師が事によりて捧ところの退状なり。然を寺門の僧綱等、龍顔にちかづきたてまつりて、戒場を当今の御時建てられなば、二世の大願成就□□よし、やうゝゝに申故に正元二年〈庚申〉正月四日始園城寺に戒壇立べきの勅宣くだりた□□」

④『定遺』『断簡九九』
「なり、主なり。王〈当帝 設大禍〉の御ために山門は主師親の三」

 正元二年正月四日三井園城寺は、悲願であった叡山から独立しての戒壇建立の勅許を、園城寺僧隆弁と、隆弁に絶対的な信頼を置く鎌倉幕府得宗北条時頼の尽力によって、後嵯峨院を動かし獲得することに成功した。それはその後叡山の強訴により撤回されたが、これらの断簡はそのことについての日蓮の見解を示したものと思われる。
 まず③『定遺』『断簡三三二』では、園城寺の悲願であった戒壇建立の勅許が、正元二年正月四日に下されたことが示されている。
 また②④では山門はすべての僧俗の父母であり、また国主の主師親でもあることが示されている。
 残念ながらそれ以外の文言は失われているが、山門延暦寺を国主さえも主師親と仰ぐべきとしていることから、日蓮はここで園城寺の戒壇建立勅許を、叡山をないがしろにする暴挙であると批判していると思われるのである。
 これは後年『諫暁八幡抄』(弘安三年末頃)に、

「而るに山門の得分たる大乗戒壇を奪ひ取りて、園城寺に立て、叡山に随はじと云云。譬へば小臣が大王に敵し、子が親に不孝なるがごとし。」(『定遺』一八三九頁)

と批判していることと共通している。

二、佐々木左衛門尉定綱の延暦寺僧徒との抗争

 次に

⑤『定遺』『断簡三一六』
「りき。建久年中佐々木左衛門尉定」

とある。

 ここに「建久年中」とあるのを手がかりとして『吾妻鑑』を見ると、建久二年(一一九一)四月五日の項目に、近江国守護佐々木定綱の子息定重が、叡山日吉社の宮仕(みやじ)を負傷させた事件が記されている。
 この事件の顛末は、近江国の佐々木庄は延暦寺の千僧供領であったが、水害によってこの年の供料が納められなかった故に、延暦寺は日吉社の宮仕を遣わしたのだが、その際宮仕等は神鏡を捧げて佐々木定綱宅に乱入したために、定重は怒って宮仕等を刃傷し、神鏡を破壊したというものである。それに怒った延暦寺の大衆は蜂起して幕府に迫り、結局定重は死罪、定綱は流罪となったのである。
 『断簡三一六』では「佐々木左衛門尉定」以下が欠失しているが、恐らく「定重」か「定綱」と記されていたものと思われる。「定重」であれば刃傷した本人を、「定綱」であれば責任者としてその父を、叡山に弓引く者として批判する文言が示されていたと思われる。
 日蓮はこの時期、たとえば文永六年三月一日状『御輿振御書』において、叡山衆徒の御輿振りによる蜂起や、その騒動による叡山炎上を、叡山が禅・念仏にたぶらかされて衰微する現証として嘆くとともに、

「滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是の如き留難を起こすか。」(『定遺』四三八頁)

と述べているように、叡山の正常化と繁栄を期待している様子がうかがわれる。
 今回紹介した断簡は残念ながらその大部分が失われてしまったが、その全体像は『御輿振御書』と同じく、叡山に弓引く事件を取り上げてそれを糾弾し、かつ叡山自身の正常化を期待する文書であったと推測するのである。(山上)

コメント