是聖房『授決円多羅義集唐決 上』筆写について

《『授決円多羅義集唐決』について》

 『授決円多羅義集唐決』は単に『円多羅義集』ともいい、智証撰述『授決集』と五十四の条目を同じくし、それを智証自身が再述したという想定で偽撰されたもので、『仏書解説大辞典』の田島徳音氏の解説では、「作者の製作態度は胎蔵法門を中心とした円密一致の思想に基いて‥‥授決集が密教々理を重く説かなかった缺を補って阿字義に主力を注いで円密一致を説いている」ところにその特色があり、「授決集をば阿字義に中心を置き達意的に後述した口伝書(口決)であって、断じて円珍の撰ではない。」としている(『仏書解説大辞典』第一巻三一二頁)。
 また大久保良順氏は「天台口伝法門と密教」(『印度学仏教学研究』十八号二頁)、および「修禅寺決を中心とする二三の問題」(『天台学報』九号七頁)等において、『円多羅義集』を顕密一致乃至密勝顕劣の立場を主張するものとしている。
 両氏の解説からも、本書が円教立ちで撰述された『授決集』を、後世密教を導入して再解説し、概ね円密一致義、ひいては密教円劣義を示した、智証に仮託して後世偽撰されたものであることがわかる。
 その成立は、宝地房証真の『法華疏私記』に引文され、かつ「彼の書誰人の所著や未だ詳ならず。授決集を釈すと雖も而もその文義恠しむべき甚だ多し。」(『大日本仏教全書』22『法華三大部私記』第二・六五九頁)と述べており、『法華三大部私記』執筆時(後記によれば永万年中〈一一六五〉から承元元年〈一二〇七〉までに再治を含め執筆と)にはすでに存在し、かつ偽撰書と認識されており、およそ平安末期頃と推定されている。

《日蓮出家後一年の貴重な資料たること》

 さて是聖房筆写の『授決円多羅義集唐決』は、冒頭「円多羅義集決上叙」と標題され、末尾には「授決円多羅義集唐決上」とその具名が示されており、かつその上巻であることがわかる。『授決円多羅義集唐決』の分巻については、寛元三年(一二四五)に筆写された高野山宝寿院蔵本が上巻十八項目、下巻三十六項目の二巻本であり、もともと『授決集』の分巻が同じ項目数の上下二巻であるから、これが本来の分巻であろう。『大日本仏教全書』が底本とした西教寺正教蔵本は上中下三巻本であるが、これは後世十八巻ずつ均等に分巻されたのであろう。そうとすれば是聖房筆写の元本は、ほぼ同時期の高野山宝寿院蔵本と同じ上下二巻本であったと思われる。
 下巻が伝来しないが、そもそも是聖房は上巻のみを筆写したのか、上下巻を筆写したが、下巻は失われて伝来しないのかは不明である。
 上巻末尾には「嘉禎四年太才戊戌十一月十四日。安房国東北御庄清澄山道善房東面執筆是聖房生年十七才。後見人々是無非謗」との識語があり、嘉禎四年十一月十四日、出家後一年の十七歳の時に、清澄寺に所在する師匠道善房住坊の東面の一室で筆写していることがわかる。

《是聖房の一筆ではなく他筆が混在していること》

 ところで本筆写本は是聖房の一筆ではなく、諸所に他筆が混在している。それは八丁表三行目「以前後番宗」から同裏末「寿量品此於其」まで、十丁表五行目「円教此諸釈如此」から十二丁裏末「浄名本記文円海理」まで、十六丁表五行目「立六識旨通教」から十八丁裏末「立方便浄合此無」までの約六丁分に及んでいる(『日蓮聖人真蹟集成』五巻に収録される『授決円多羅義集唐決 上』は、乱丁して掲載されているので注意)。

 そしてそれは、上掲写真を見てわかるように、三行目の冒頭から「〈如遺教経〉一代大綱」までが是聖房筆、「以前後番宗」以降が他筆と、一行の中で、しかも文章の途中で書き継がれており、これは欠失した部分を後世補ったのではなく、いわば是聖房と某師が、共同作業で筆写したものであることがわかる。
 しかも、写真一・二行目に見られる是聖房筆の「五味」と、三行目に見られる他筆の「五味」、また二行目に小さく「如法花論」と記されている「法花」と、四行目中程の「法花」を比較してわかるように、他筆は十七歳の是聖房の文字に比して整った字体である。そうであればこれは共同作業というより、他筆者某の教導を受けつつ筆写した可能性が高いように思われる。
 そのように想定した場合想起されるのが、日蓮の『秘書要文』『天台肝要文集 上』『双紙要文』『行忍手沢要文集』等が、弟子との共同作業で作成されていることである(その詳細は『日蓮遺文解題集成』の各項解題を参照のこと)。これらは日蓮が弟子に指導しつつ作成されたと考えられ、それは是聖房が修学期に学んだ、修学の方法だったと思われるのである。
 そうとすれば右他筆は、筆蹟照合はできないものの、師である道善房や、兄弟子で初等教育時代の師とも想定される義浄房・浄顕房などの可能性があろう。
 また末尾識語には「後見人々是無非謗」=「後見の人々是を非(誹)謗することなかれ」とあり、これは筆写本識語の常套句ではあるが、これが単なる筆写ではなく、この顯密一致・密勝顕劣義の台密義が示される『授決円多羅義集唐決』を、肯定的に教導を受けながら筆写した可能性が高いことは、念頭に置かれて然るべきと思う。

《『戒体即身成仏義』との関連から》

 さて最後に、日蓮修学期の唯一の著述である『戒体即身成仏義』が、『授決円多羅義集唐決』と同じく密勝顕劣の台密義によって執筆されていることに触れておきたい。今年十二月十三日刊行の『興風』三七号に掲載された、石附敏幸氏「『戒体即身成仏義』管見」では、同著が安然『普通授菩薩戒広釈』の影響を強く受けていることが指摘されているが(三四八頁以下参照)、そのことを含め、日蓮は修学期において、密勝顕劣の台密義を主体として修学したことが推測され、同時にそのことは、日蓮修学期の清澄寺が、密勝顕劣の台密義を主軸におく、天台宗寺院であった可能性が高いことを示していよう。
 なお以上のことは、『興風』三七号掲載の拙稿「日蓮修学期についての覚書」にいささか詳しく述べているので、併読していただければ幸いである。〈山上〉

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