富木常忍宛文書の充所

 富木常忍は、日蓮聖人から多くの書状を送られた檀越の一人である。常忍は聖人の自筆(御真蹟)を大切に保管し、門下にもその厳命をしたため現存数は多い(それでも散逸は確認されるが)。これら常忍が受信した書状には、当然のこと常忍に宛てたことをしめす充所が多数記されている(省略したものもある)。そして鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』(1965年)、岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第2巻(1993年)、山上弘道『日蓮遺文解題集成』(2023年)等の研究によって、富木常忍宛の日蓮聖人書状の充所には、次のような変遷・傾向が認められることが指摘されている。

まず初期の頃は「とき」と平仮名で書かれたものが多く、やがて「土木」となり、これは文永10年(1273)ころまで続き、その後「富木」と書かれ、弘安3年(1280)になると「富城」がみられるようになる。もちろん身延入山直後、常忍へあてた書状には「とき」と平仮名で書かれているし混在もあるが、大凡の傾向は、これまで指摘されてきたとおりである。

いったい聖人は、なぜこのような書き分けをしたのだろうか? 皆目見当もつかないが、「とき」→「土木」→「富木」→「富城」と次第に字画数が増えていて、多少の遊び心でもあったろうか? ともかく富木常忍宛の日蓮聖人書状には、上掲のような変遷・傾向が認められるため、時にこれをもって、無年号書状の執筆年次(日蓮門下では「系年〔けいねん〕」という)推定の根拠とされることもあり、これは上掲の研究書等でも用いられ、私も少しばかり言及したことがある。

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富木常忍は、因幡国富木郷(現、鳥取市)を本貫(本籍)とする人だった。『鳥取県の地名(日本歴史地名大系32)』(平凡社,1992年)に「富木郷」の解説を求めれば、次のようにある。

富木郷(ときごう)
「和名抄」高山寺本に載る法美郡(ほうみ)罵城(とき)郷の系譜をひく中世の郷で、国府近辺に比定する説がある。日蓮の檀越富木氏の本貫地で、元弘三年(一三三三)正月十三日の作成と推定される日興置文(興尊全集)に「因幡国富城荘」の本主富木常忍(日常)らが日蓮自筆の「観心本尊抄」一巻などを与えられたことが記されている。富木氏は国府近辺に居住していた在庁と思われるが、常忍の父と考えられる富城中太入道蓮忍が千葉氏に従って関東に移住したらしい。常忍は建長二年(一二五〇)頃に蓮忍から譲られた所従を因幡一宮宇倍宮の公文元富に奪われたと訴えているので、鎌倉時代後期にはまだ当地に所領をもっていたが、その支配力は失われていたと考えられる(年月日未詳「富木常忍申状」中山法華経寺蔵双紙要文紙背文書)。観応元年(一三五〇)十二月二十日、友枝宗高ら一族に矢部平次左衛門尉の所領であった富木郷(年貢三〇〇貫文)などの地頭職が勲功の賞として与えられ、惣領宗高は一族の者に当郷を配分している(「足利直冬宛行状案」豊後余瀬文書)。永禄七年(一五六四)一月十九日、中村鍋法師丸が法美郡富木のうち三町などを安堵されている(「山名豊数安堵状」中村文書)。

※文中の「日興置文」は「富士一跡門徒存知事」(筆者注)

あわせて「罵城郷」を挙げておくと、

罵城郷(ときごう)
「和名抄」高山寺本には「度岐」の訓を付す。同書東急本では巨濃郡のうちに記され、「度木」の訓がある。東急本によって郷名を「万木」の誤記とし、現岩美町牧谷まきだに付近に比定する説があるが(大日本地名辞書)、同所は巨濃郡のうちであり、また訓が合致せず無理があろう。また旧巨濃郡域の現同町新井・河崎付近とする説もある(岩美町誌)。当郷を継承したとみられる中世の富木郷は法美郡に存在したことが確実であるから(永禄七年一月一九日「山名豊数安堵状」中村文書)、古代の罵城郷も法美郡に属したとみるべきである。遺称地はないが、近世の登儀郷(登木郷)の領域から、袋川と上地川の合流点付近から、西の袋川が平野部に出る辺までの地域、現国府町のほぼ中央部に比定される。

  源順『和名類聚抄』(寛永二十年版)巻八
(国立国会図書館デジタルライブラリーより転載)

という。かように富木はさまざまに書かれるが、富木常忍本人は、どう書していたのだろうか。現存する自筆文書には、上掲『鳥取県の地名』も引くように「沙弥常忍訴状草案」に「富城」と書いている。また富木常忍の息、寂仙房日澄上人が書写した『法華本門取要抄』には「富城入道殿許」と書かれ、日澄写本を転写した信伝写本は、富木常忍宛書状・文書の充所を、すべて「富城」としている(北山本門寺蔵)。のみならず奥書にも「已上十一通者因幡国富城庄之本主日常所賜也」(同上)と「富城」を用い、日興上人による日蓮聖人図顕本尊の添書も「富城寂仙房」、日興上人書写本尊の授与書も「富城寂仙房」である。日興上人記「日蓮聖人遷化記録」は「富木五郎入道」だが、本尊の授与書など、本貫を冠した正式名はすべて「富城」であり、あるいは富木一家は「富城」を基本としていた可能性があろう。

それから日蓮聖人遺文の場合は、上掲のように「とき」→「土木」→「富木」→「富城」の変遷をみるが、これは必ずしも一般文書とはリンクしない。
周知のとおり富木常忍は、下総国守護職にあった千葉氏に仕えていた。しかも常忍は文筆官僚で、常忍のもとには千葉氏の家政機関にあてられた様々な文書が寄せられた。むろん主君への披露もあったが、常忍へ直接宛てたものが多い。これらの文書に記された充所には「とき」「富木」「富城」がみられるが、建長四年(1252)三月廿八日付の「法橋長専書状」の充所をみると「謹上富城殿御返事」と記されている。
先述どおり、日蓮聖人遺文の場合、「富城」が充所にみえるのは、弘安三年(1280)以降だが、一般文書では30年程前、すでに「富城」がみえているので、年次推定の根拠として、日蓮聖人遺文の用例を適用することはできないのである。

なお一般文書でも日蓮聖人遺文と同様、「富木殿」「富木入道殿」のように、入道の有無が散見される。とくに「りういん書状」(年未詳三月二十三日付=「天台肝要文集上」紙背文書)をみると、本文の充所は「ときとの」だが、同書状の封紙上書は「ときの入道との」である。富木常忍あて書状の年次推定に、「入道」の有無による振り分け、つまり「ときとの」は在俗時、「入道」は出家後としている史料集もあるが、日蓮聖人遺文同様、一般文書においても混在が確認されるので一考を要する。

次でながら常忍宛文書の充所について記しておくと、「秘書要文」紙背文書には「富木五郎」あるいは「ときの五郎」等と、常忍の通称「五郎」を加えたものが集中的にみられる。あるいは年代的なことかもしれず、これは裏の「秘書要文」の執筆年次と合わせて、注意しておく必要があるかもしれない。

以上ざっぱくながら、富木常忍宛文書(書状・著作等)の充所を摘記し、気づいたこと二三を記しおいた。富木常忍宛の文書を多数おさめる「聖教紙背文書」については、目下整理中だが、読者諸賢にもお気づきの点など、ご教示を賜れば幸甚である。(坂井)

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