『富士門家中見聞』中巻の成立および日精の歴世について

◎『富士門家中見聞』中巻の成立について

 これまで、『富士宗学要集』五巻において『家中抄』中巻は「正本無き」とされてきたが、『研究教学書』五巻および『歴代法主全書』二巻の巻頭図版の筆跡から、『家中抄』中巻の正本が現存していることを確認した。

 すでに、中巻〈草稿本〉は「明暦三年(1657)五月八日」に、上巻は「寛文二年(1662)十二月十八日」に成立していることは明らかだが、前回確認した中巻の正本(60丁)には識語はない。したがって、成立年は不明である。ただし58丁表と60丁表の二箇所に日精の花押が確認される。そこで、中巻〈草稿本〉と上巻に見える花押と比較すると以下の通りである。

日精花押(中巻草稿本)
明暦三年(1657)五月八日
日精58歳
日精花押(上巻)
寛文二年(1662)十二月十八日
日精63歳
日精花押(中巻)
58丁表・60丁表
系年不明

 中巻草稿本の花押はやや縦長で、その五年後の上巻になると少し膨らみがでている。それに対して中巻の花押は、さらに左右に膨らんでいる。これにより、上巻に続いて中巻が執筆されたことが窺える。

 したがって、日精は五十代の時に『家中抄』を草稿し、六十代の時に『家中抄』を完成させたことが考えられる。ちなみに、日精は天和三年(1683)に八十四歳をもって入寂している。

◎大石寺日精の歴世について

 前回、中巻正本の表紙に「本山十八世當寺開山 日精上人述作本書 常在寺重寳/久遠阿本壽院日量/助所 孝道日久/文化八〈辛巳〉年/六月十三日/奉寄附之」とあることを示し、日精は「本山十八世」と認識されていたことを述べた。

 しかし、『富士年表』(平成2年3月13日 増訂発行)によれば日精の歴世は「十七世」とある。どうしてこのような相違があるのか、少々検討してみたい。

 まずはじめに、日精自身が歴世を示したものは見受けられない。『家中抄』においても、「行年六十三 日精花押」(上巻識語)、「前大石寺 日精」(中巻草稿本私注)とあるのみで、歴世に関する記述はみられない。

 そこで、興風談所架蔵の『常在寺明細誌』(『明細誌』『地誌調書上帳』合冊)によれば、日精の歴世を「本山十八世」としている。

『明細誌』
(明治二十年五月)
『地誌調書上帳』
(文政九年九月)

 上写真のように、日精の歴世は「十八世」として伝来していたことが窺える。ちなみに十七世は『明細誌』に「十七世日盈上人」と表記されている。したがって、もとは「十七世日盈」「十八世日精」とされてきたものが、近年において「十七世日精」「十八世日盈」と変更されたことになる。

 そこで『家中抄』下巻の最後の日盈伝をみると、「同十年に当山に入院し」とあるのみで寛永十年(1633)に日盈が大石寺に晋山したことを伝えるのみで歴世についての情報はない。

 次に大石寺48世日量撰『続家中抄』の「日精伝」によれば、「寛永九〈壬申〉年十一月就師江戸法詔寺に下り、金口嫡嫡の大事を以って師に完付す、盈師病に因って湯治の為めに会津実成寺に退隠し、終に彼の地に於いて遷化したもう。之れに依って師同じく十四〈丁丑〉年の春本山に移転し正嫡十八の嗣法となる」とあり、寛永九年に日就より「金口嫡嫡の大事」を承けて、寛永十四年(1637)に「正嫡十八の嗣法」いわゆる大石寺十八世として晋山したことが示されている。したがって、日就(16世)→日盈(17世)→日精(18世)が元来の歴世であったことが確認される。

 ところが現在の『富士年表』は、日就(16世)→日精(17世)→日盈(18世)としている。その理由を、日盈が晋山する前年の寛永九年に、日就から日精に「金口嫡嫡の大事」が相承されたことに求めているようだが、これは『家中抄』下巻の日就伝に「寛永九年十一月江戸法詔寺に下向して直受相承を以って予に授け、同十年〈癸酉〉二月二十一日没したもう」の記述を日量が継いだものである。

 しかし、日就は寛永九年二月二十一日に入寂しており、そのことは大石寺の「大過去帳」および日精自身も「慶安四年十一月」状(『興風』31号212頁参照)に「寛永八年……翌年二月ニ終焉」として、日就は寛永九年二月二十一日に入寂したことを伝えている。

したがって、『家中抄』下巻に示される「寛永九年十一月」の時にはすでに日就は入寂しており、その時の相承は成立しない。はたして、相承が行われた大事な年を間違えるだろうか。もしかすると、日精が『家中抄』下巻の執筆の際に自作したものかもしれない。それに加え、日精から日盈に相承した史実も見当たらない。

 以上のように、『家中抄』は当時の日蓮遺文などの伝存状況を伝えながら、富士門流の歴史を詳記している。いずれにせよ、『家中抄』下巻の正本の発見が待たれる。 (渡邉)

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