現在多くの日蓮門下では、第二十答の「今本時の娑婆世界は」以下の四十五字を法体段とよんで「その本尊の為体」以下の八十九字段の基盤とみるが、種脱の相違があることも認めている。日興門流ではどう考えるのか、私見を述べたい。
一、四十五字段の一念三千の妙法は妙覚成仏をかなえる法体
今本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化もって同体なり。これすなわち己心の三千具足、三種の世間なり。
この四十五字段は寿量品説時の娑婆世界が久遠本時のままの常寂光土となり、久遠以来の寿命をもつ釈尊と、久遠以来教化されてきた在世所化が感応道交して成道を遂げる脱益を表している。その三千世界が釈尊の己心に具現したのである。くり返すことになるがポイントは二つある。第一は「所化」は三五の下種以来釈尊に化道されてきた在世所化であること。先月のコラム「『小乗大乗分別抄』と『観心本尊抄』第十七答」に記したように、『観心本尊抄』は末法我らが未下種であることを前提とするから、我らは「所化」に入らない。第二は「己心」は本門の釈尊の己心であること。理由は四十五字段の主格が「仏」にあり、また『開目抄』に「法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給ふ」とあって、本門に約せば開近顕遠の時、釈尊は心中の一念三千の本懐を述べたことになるからである。
『法華取要抄』にこうある。
法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・龍王等は、位は妙覚に隣り、また妙覚の位に入るなり。もししかれば、今我ら天に向いてこれを見れば、生身の妙覚の仏が本位に居して衆生を利益するこれなり。(中略)仏の在世には一人においても無智の者これなし。
在世の所化に無智の者は一人もなく、略開近顕遠が説かれた時に等覚・妙覚に入った。それゆえ今、天を仰げば、日月衆星は妙覚の本位にあって我らを利益しているという。彼らが四十五字段の「所化」であり、妙覚成仏をかなえる妙法を信行して六即を昇り成道したわけである。
二、八十九字段の妙法は名字即成仏をかなえる法体
その本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔が空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るがごとし。十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。
この八十九字段は、本門八品にて末法下種益の妙法が釈尊から上行等の地涌菩薩へ付属される場面を表している。『顕仏未来記』に「日蓮は名字の凡夫」とあるように、宗祖や我らはこの妙法を信行する名字即にある。『南部六郎三郎殿御返事』に、
末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重によらず、ただこの経の信不信に任すべきのみ。(中略)法華経の心は当位即妙・不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。
とあって信による名字即成仏が説かれ、『四信五品抄』では、
現在の四信の初めの一念信解と、滅後の五品の第一の初随喜と、この二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋、十方三世の諸仏の出づる門なり。天台・妙楽の二の聖賢、この二処の位を定むるに三つの釈あり。(中略)予が意にいわく、三釈の中、名字即は経文に叶ふか。
と、末法の一念信解・初随喜の位を名字即と定め、
問ふ、末法に入りて初心の行者、必ず円の三学を具するやいなや。答へていわく、この義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。いわゆる五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して、一向に恵の一分に限る。恵また堪へざれば信をもって恵に代ふ。信の一字を詮となす。不信は一闡提謗法の因、信は恵の因、名字即の位なり。
と、末法の初心行者は以信代恵の名字即の位にあるという。末法下種の妙法が名字即成仏をかなえる法体をもつ所以である。
三、地涌付属の末法下種益の妙法本尊
四十五字段の一念三千の妙法は在世脱益の妙覚成道をかなえる法体であり、八十九字段の妙法は末法下種益の名字即成道をかなえる法体である。両段は同じ本門であるが、本門に二種あることは第二十二答に、
本門をもってこれを論ずれば、一向に末法の初めをもって正機となす。いわゆる一往これを見る時は久種をもって下種となし、大通・前四味・迹門を熟となして、本門に至りて等妙に登らしむ。再往これを見れば、迹門には似ず、本門は序正流通ともに末法の始めをもって詮となす。在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。ただし彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり。
と示されている。下線を引いた四か所の「本門」の内、二番目と四番目は在世脱益為正の本門で四十五字段にあたり、一番目と三番目は末法下種益為正の本門で八十九字段にあたる。昨年六月のコラム「『観心本尊抄』四十五字段の「所化」「己心」について」の中で、本門には在世の賢者・有智者を得脱させる場面と、末法下種の妙法を付属する場面の両方が説かれていると記したが、これもその文証となる。
法体の相違に注意を払うのは日興門流だけではない。山川智応氏も、四十五字段の法体は「寿量品を聞く本門脱益の機の為めであって、仏の滅後の末法の我等衆生の為めではない。(中略)そのままでは仏種(本有の三因という仏性種は固有していても、仏乗種)を失っている衆生には用いられない」ので、神力品の結要付属の時に本因下種益の法体に転換されたと指摘する。これは釈尊による法体転換であるが、宗祖と門下の信行が関わっていることをかつて稚拙な表現ながら触れたことがある。平成三年発行『興風』七号の拙稿「『日興上人御遺告』を拝す(一)」を参照。
第三十答に、
この釈に「闘諍の時」云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。(中略)この菩薩は仏勅を蒙りて近く大地の下にあり。正像に未だ出現せず、末法にもまた出で来たりたまはずば大妄語の大士なり。三仏の未来記もまた泡沫に同じ。
とあり、自界叛逆が起き、西海侵逼の兆のある今、付属の妙法を所持する地涌菩薩がまさに出現しようとしているという。この二か月半後に通称「佐渡始顕本尊」が図顕される。「始顕」のいわれは宗祖が同本尊に、
文永八年太才辛未九月十二日、御勘気を蒙り佐渡国に遠流。同十年太才癸酉七月八日にこれを図す。この法華経大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提の内に未だこれましまさず。日蓮始めてこれを図す。
と記したことによる。『観心本尊抄』の地涌付属にもとづく末法下種の妙法本尊が初めて建立されたのある。(菅原)
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