「山家学生式」の受戒の本尊
最澄が弘仁十年(819)に制作した『天台法華宗年分度者回小向大式』(「四条式」)には、比叡山における大乗戒受戒の儀制をつぎのように定めている。

要約すると、
「大乗戒では、普賢経の文に依り三師証等を請い、釈迦牟尼仏を戒和上とし、文殊菩薩を羯磨阿闍梨とし、弥勒菩薩を教授阿闍梨として、一切の諸仏を証師とし、一切の菩薩を同学等侶として、現前の一人の伝戒の師を請い、以て現前の師とする。もし伝戒の師がいなければ千里の内に請し、それでも戒を授けてくれるものがなければ、それらの像の前で至心に懺悔して自誓受戒せよ。天台の年分度者ならびに回心向大した初心の行者には大乗戒を授けて大僧とする」
との内容のものである。この「四条式」に随って比叡山の戒壇院の本尊は釈迦と文殊と弥勒の三師を受戒時の本尊としている。大聖人の『一代五時鶏図』(「新定」第二巻1409頁)に法華経結経の普賢経の脇に「叡山戒壇」と記されているのはそのことを示されているものと思われる。
因みに、その依拠となっている普賢経の箇所が、
「その時、行者が、もし菩薩戒を具足せんと欲せば、まさに合掌して、空閑の処に在って、あまねく十方の仏を礼したてまつり、諸の罪を懺悔し、自ら己れの過を説くべし。しかして後に静かなる処にして、十方の仏に白して、この言を作せ。『諸仏世尊は常に世に住在したもう。われは業障の故に方等を信ずといえども、仏を見たてまつること了(あきら)かならず。今、仏に帰依したてまつる。ただ願わくは、釈迦牟尼仏・正遍知世尊。わが和上と為りたまえ。文殊師利・具大悲者。願わくは、智恵をもって、われに清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩・勝大慈日。われを憐愍するが故に、またまさに、われが菩薩の法を受くることを聴したもうべし。十方の諸仏。現じてわが証と為りたまえ。諸の大菩薩は、各々その名をこれ勝大士と称する。衆生を覆護し、われらを助護したまえ(後略)』」(開結714頁)
との文である。

(比叡山戒壇院の本尊)
『伝述一心戒文』の受戒の本尊
一方、光定の『伝述一心戒文』の天長十年・承和元年(834)の記録を見てみると、

と記されていて、天長十年(833)最澄とともに唐の龍興寺で円教の菩薩戒を受けた義真が亡くなって、伝戒の人がいない中、承和元年(834)に円澄が座主として一乗戒を伝えんための師となった。そして、「無作の戒体は実相の心で、その体と宗は不即不離の関係にある」との教理解釈があって、そのあとに受戒の本尊について「大日如来が行者に一乗戒を授けんとして、釈迦・文殊・弥勒を授戒の三師として、十方の諸仏を証とし諸菩薩をその伴として受戒」することを意義付けしている。これは最澄の「四条式」に記されている普賢経の経文を依拠とする受戒の本尊の意義とは異なっている。

唐への質問状
最澄義真の滅後、承和五年(838)円仁は比叡山一山の期待を背負って唐へ渡り、天台の教理法門に関する質問を携えて五台山や長安を巡っている。その質問状に対する決答がいわゆる「唐決」と言われているものである。先月のコラムで6編の「唐決」を紹介した。
①「最澄疑問 道邃答」、
②「円澄疑問 広修答」、
③「円澄疑問 維蠲答」、
④「義真疑問 答者不明」、
⑤「光定疑問 宗頴答」、
⑥「徳円疑問 宗頴答」
である。最澄疑問以降の「唐決」の中で共通している質問の中の一つに、新訳の真言経の扱いについての問題がある。つまり天台四教五時の中、真言経の説時は法華経の説時の前か後か、どこに配当するのかの疑問である。天台山の広修・維蠲は真言経の説時は方等部に摂属すべきと答え、一方長安の宗頴は法華経と同じ説時とし、答えが二つに分かれる結果になった。『雑々抄第十六』では、恵心流は「法華経と同じ第五時の説」とし、檀那流は「方等部の説」としていて、一宗として統一の結論は出せていないようである。
光定の質問状
「唐決」6編のうち光定の質問が興味深い。一番目の質問項目に「盧舎那仏所説の戒は人法権実か」とあり、その質問の文章を見ると、
「普賢観経意を案ずるに戒之和上は大日如来である。経に釈迦牟尼名毘盧遮那遍一切処等云う」(卍続蔵100巻845頁)
とあって、普賢経の「釈迦牟尼名毘盧遮那遍一切処」という文を根拠として、戒の和上は毘盧遮那となるのではないかと問うている。これは「承和元年の大日如来を戒和上」としたことを既に定められたこととしての質問のように思われる。(成田)


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