前回は、日蓮遺文『四信五品抄』と富木常忍『不審状』の関係について検討し、『四信五品抄』述作の由来や当時における宗祖と常忍のやり取りについて論述した。
日興撰『富士一跡門徒存知事』には、「法門不審条々を申すに付いての御返事なり。仍て彼の進状、奥に之れを書く」との注記がみられるように、上代より『四信五品抄』と『不審状』はセットで伝来しており、大石寺本はもとより後世の録内写本(林日邵本・本法寺本・日奥所持本・妙伝寺本など)でも、それは確認されている。ただし大石寺本は、『不審状』の「追言上」(2回目の状)、「畏令言上」(1回目の状)のうち、「畏令言上」のみを書写し、他の録内諸本は両状ともに収録するという相違がある。
なぜ大石寺本は「畏令言上」のみを書写したのか、今回は中山法華経寺蔵の常忍筆『不審状』と大石寺本との対照作業を通じて考察を加えてみたい。
その前にまず大石寺本における『四信五品抄』と「畏令言上」の関係を述べる。以下に掲げた上下二段の図版をみても分かるように、両者はセットで書写されたもので当然ながら同筆である。

大石寺本『四信五品抄』冒頭部分。元は冊子本だが現在は巻子本に改められている。
筆者不詳。ただし次上の表紙に「日目之」とあり、日目所持本たることが了解されている。なお末尾には「弘安元年五月二日」の本奥書がある。おそらく大石寺本は宗祖在世中の写本を親本として書写・成立したもの。下段に掲げた図版「畏令言上」も同筆で書かれている。
※画像は転載禁止です(以下同じ)

大石寺本「畏令言上」の後半部分。これも冊子を巻物に改めたもので、『四信五品抄』の奥に付されている。筆致を対照すれば分かるように、大石寺本の『四信五品抄』と「畏令言上」は同筆である。
大石寺本の『四信五品抄』は、末尾に「弘安元年五月二日」の書写年を示す本奥書があるので、その親本は宗祖の在世中に身延山にて書写されたもの。その際に常忍の「畏令言上」もセットで写されている。
先にも述べたように、日興撰『富士一跡門徒存知事』の「四信五品抄 一巻」の項には、「……彼の進状(「畏令言上」のこと)、奥に之れを書く」とあれば、おそらく大石寺本『四信五品抄』と「畏令言上」の親本は、日興自身が宗祖の印可を受けて書写したものと推察されよう。それが後に転写され、日目所持の大石寺本となったのであろう。
大石寺本『四信五品抄』の内題に「法華本門四信五品抄」とあるのは、次の日興の教示に依っている。

日興は法華本門の法義を明確に示すため、宗祖の御書のタイトルにその字は無くとも、「法華本門」の四字を加えると記している。それは「法華本門」を標榜する日興門流の特色ともいえるのもので、日興本『法華本門本尊問答抄』(北山本門寺蔵)、日澄本『法華本門下山抄』『法華本門取要抄』(北山本門寺蔵)や日目所持本『法華本門法華取要抄』(大石寺蔵)など、いずれも内題の御書名に「法華本門」の四字を冠している。大石寺本『四信五品抄』に付された「法華本門」も日興が教示したものであろう。
さて、話を大石寺本「畏令言上」に戻して、なぜ大石寺本には「追言上」(2回目の書状)部分が書かれていないのか、考えをめぐらしてみたい。
まず思いつくのは、大石寺本は「追言上」がない1回目の「畏令言上」を書写したものと思われること。「追言上」があるのに、それを省いて「畏令言上」のみを書写するとは考えづらいからである。
常忍が書いた2回目の『不審状(「追言上」+「畏令言上」)』は常忍自筆が中山法華経寺に現存するが、それには墨引き切封を開いた跡があるので、宗祖が『不審状』に目を通されたことは間違いないであろう。それが中山に現存するのは、宗祖が書き上げた『四信五品抄』とともに『不審状』を添えて、常忍の許ヘ戻したからと思われる。真蹟の『四信五品抄』末紙(第13紙)は余白がかなりあるのに、宛名や差出日を書かれなかったのは、常忍の『不審状』を付したゆえではなかろうか。
とすれば、大石寺本の親本が書写された「弘安元年五月二日」には、中山現存の常忍筆『不審状(「追言上」+「畏令言上」)』は身延になく、1回目の「畏令言上」が遺されていたのであろう。つまり大石寺本はそれを書写したと考えられる。
ちなみに大石寺本の「畏令言上」と常忍筆の「畏令言上」を対照すると、文言にいくつかの相違が見られる。次下に大石寺本の翻刻を掲げて、両本の相違箇所を朱字で示してみよう。

上述のように両本の表記には12箇所の相違がある。該当する朱字の箇所について、大石寺本「畏令言上」→常忍筆「畏令言上」の順に相違を示せば次のようになる。(常忍筆『不審状』の全文翻刻は前回のコラムを参照。)

両本の表記は相違しても、意味内容において大きく変わりはない。ただし、これらの表記の相違を大石寺本の単なる写し間違いとみるのは妥当ではないだろう。また大石寺本の筆者が故意に書き改めたとするのも無理があろう。これらの細かい相違点は、常忍自身が2回目の「畏令言上」を書くにあたり、1回目の文言を少しく省いたり、表記を直したとみるほうが合理的である。
なお、録内写本(林日邵本・本法寺本・日奥所持本・妙伝寺本など)における『不審状』は、「追言上」「畏令言上」を併録しており、その表記も常忍筆『不審状』とほとんど同じである。つまり録内写本は、後に中山の常忍筆『不審状』を確認した上で、それを再録したものである。現在のところ、大石寺本「畏令言上」は同表記の写本は見当たらず、独自性を保っている。これも大石寺本が1回目の「畏令言上」を用いている傍証となろう。
今回のコラムをまとめれば、
- 大石寺本『四信五品抄』および「畏令言上」の親本は、弘安元年五月二日に日興がセットで書写したものと思われること。
- その親本が後に転写され「法華本門」を冠した大石寺本=日目所持本になったのであろう。
- 大石寺本「畏令言上」は、常忍1回目のそれを書写したものと推察されること。
- これらの経緯や所伝は、日興撰『富士一跡門徒存知事』の「法門不審条々を申すに付いての御返事なり。仍て彼の進状、奥に之れを書く」の一文や「御書ごとに法華本門の四字を加ふ」との記述に合致すること
等々である。
なお、大石寺本は「畏令言上」のみならず、『四信五品抄』本文も真蹟『四信五品抄』と全体的に文章や文言の相違が多くみられる。その経緯や理由については、じつに興味深いものがある。全文の対照作業を済ませて別稿を用意したい。(池田)


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